「松山子規会」の歩み

 

  松山子規会は、昭和18年(1943年)119日、正岡家の菩提寺で正岡子規の埋髪塔のある正宗寺(松山市末広町)で発足した。

 発足の呼びかけの中心的役割をしたのは、俳誌「ほととぎす」の創刊者で子規の親友である柳原極堂。

 その呼びかけに子規を敬愛する多くの人たちが応えて毎月19日(子規の月命日)に正宗寺での例会が始められた。以来、今日まで  

 続けられ平成293月例会は第890回を迎える。この間例会を休んだのは昭和208月の終戦の月のみ。終戦直後の混乱に加え、7

 月26日の米軍による松山大空襲で「戦災のため八月例会は休会」(『子規遺芳』)となった。

 

  発足時の会則第2条には

 

「本会ハ俳聖正岡子規ヲ敬仰、其ノ偉業ヲ不朽ナラシメ、且郷土ニ於ケル子規系巨星ノ事績ヲ研究スルヲ以テ目的トス。」

 

 と明記され、その趣旨は今日まで受け継がれている。

 

 これまでに毎例会ごとに会員が、子規の研究や子規を取り巻く作家、詩人、俳人、歌人などについての講演や卓話を続けている。松山子規会のそれら地道な活動は、子規の顕彰、研究を通して地域の文化を支える大きな柱としての位置づけされるとともに、国内のみならず、韓国・中国などアジアで、またアメリカ、ヨーロッパなどで各国の子規研究者、団体から松山子規会への大きな期待が寄せられている。

 

     特に平成291月には、アメリカ・ボストン大学からの要請を受け、これまで発刊されている「子規会誌」(創刊号から現在の第151号まで)が贈呈され、同大学での日本文学研究資料として活用されることとなった。