正岡子規 略年譜

   1. 年譜の「内容」は,子規の文学活動を主眼におき、次に主要な関連事項を記載した

 2.「月・日」は、「内容」の最初に書かれた事項に該当する月日。「月日」の不明は「上・中・下」とし旬を表す。

 3. 年齢は、子規存命当時の年齢表示(数え年)とした。

 

和暦

(年)

西暦

(年)

年齢

(歳)

内   容

慶應3

1867

1

9

17

陽暦1014日伊予国温泉郡藤原新丁(現松山市花園町)に誕生。本名常規、幼名

處之助、通称升(のぼる)父、正岡隼太常尚(御馬廻番入-35歳)、母、八重-23歳は松山藩第一の儒学者・大原観山の長女(家は歩行町、鮒屋町とも)。母の弟に大原恒徳、加藤拓川などがいて、後に子規の援助をした。

明治3

1870

4

10

1

妹、律 誕生。

   5

1872

6

3

7

父、隼太死去(40歳)。母、八重の弟・大原恒徳を正岡家の後見人とする。

  11

1878

12

 

 

夏、土屋久明のもとで漢詩を作り始める。北斎の「画道独稽古」を模写。

  12

1879

13

12

27

勝山学校を卒業。それまでに回覧雑誌「桜亭雑誌」「松山雑誌」「弁論雑誌」を作る。

  13

1880

14

3

1

松山中学(現松山東高校)入学。8級生。

  14

1881

15

 

 

冬、柳原正之(極堂)と友人になる。

  16

1883

17

6

10

叔父、大原常忠(拓川)の上京を勧める手紙を読み松山中学を中退して上京。14日着京。

  17

1884

18

3

 

旧松山藩の育英制度「常盤会給費生」に選抜される。9月、東京大学予備門に入学。

  18

1885

19

 

 

句作を開始。7月、帰郷し和歌を井手真棹に習う。7月、妹・律(16歳)が恒吉忠道と結婚。

98日深夜、秋山眞之、清水則遠、小倉脩吉と鎌倉へ無銭旅行。寄席に通うなど青春を謳歌。

  19

1886

20

 

 

ベースボールに興味をもち、やがて熱中する。

  20

1887

21

7

松山市三津浜の俳句宗匠・大原其戎を訪問、主宰誌「真砂の志良辺」に投句、初めて俳句が公開された。

  21

1888

22

9

24

本郷区真砂町18番地常盤会寄宿舎(北側28号室)に入る。7月、「七草集」に着手。

  22

1889

23

5

9

夜、常盤会寄宿舎で大量の喀血。時鳥の題で句を作り「子規」と号す。

1月、夏目漱石と知り合う。2月、陸羯南が新聞「日本」創刊。613日、妹・律、中堀貞五郎と再婚。

    23

1890

24

7

8

第一高等中学校本科を卒業。9月、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。碧梧桐、虚子と知り合う。

24

1891

25

3

25

房総旅行「かくれみの」、625日、木曽旅行「かけはしの記」、冬、子規生涯の仕事「俳句分類」に着手。

  25

1892

26

6

26

新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し俳句革新にとりかかる。1月、小説「月の都」を執筆。

  26

1893

27

7

23

「はて知らずの記」(奥羽旅行)「芭蕉雑談」などを「日本」に連載。1月、母と妹3人で初の東京での正月。

  27

1894

28

2

1

東京市下谷区上根岸82番地(子規庵)に転居。2月「小日本」編集者→7月、廃刊。和歌号「竹の里人」

28

1895

29

5

17

日清戦争従軍記者で清国遼東半島からの帰途、船中で多量の喀血。神戸病院で治療後、8月、松山に帰省。

松山中学赴任中の夏目漱石と「愚陀仏庵」に同居。松山で松風会句会を指導。「散策集」を書き「日本」に「俳諧大要」を発表。10月、松山を発ち奈良で句作し東京へ。12月、道灌山で高浜虚子に後継問題を話す。

  29

1896

30

2

 

病状悪化。左腰が痛み寝たままが続く。3月、脊椎カリエスと診断さる。11月、胃痙攣を病む。

  30

1897

31

1

15

松山で柳原極堂が「ほととぎす」を創刊。1224日、第1回「蕪村忌」を子規庵で開催。

  31

1898

32

2

12

「日本」に「歌よみに与ふる書」を10回連載し短歌革新に取り組む。夏、「ほととぎす」を高浜虚子が引き継いで東京で刊行することに決定し10月、東京発行「ホトトギス」第1号刊行。以後「俳句分類」を連載。

  32

1899

33

1

20

「俳諧大要」刊行。5月から病状悪化し、発熱と不眠に苦しむ。肘をつき執筆。

11月22日、虚子らと文章会を開き、写生文の指導を始める。

  33

1900

34

1

29

「日本」に「叙事文」を3回連載し、写生文を提唱。俳句、和歌、文章の革新を提唱。825日、漱石がロンドン留学のため挨拶に来る。その夜、子規は静岡県興津に転居を希望したが、その後中止となる。

1224日、横顔の単独写真を撮影し、最後の写真となる。

    34

1901

35

1

16

「日本」に「墨汁一滴」を執筆し始める。92日より「仰臥漫録」を執筆し、死の半月前まで書いた。

10月頃より病状さらに悪化し苦痛を激しく訴える。12月上旬より親しい人が交替で看護する。

  35

1902

36

5

5

「日本」に「病牀六尺」の連載を開始、死の直前まで継続した。8月、水彩画「玩具帖」を描く。9月、病状極度に悪化。

 

 

 

9

18

10時頃、絶筆三句を記す。夜、子規は「誰々が来ておいでるのぞな」と言い、それが最後の言葉となった。

 

 

 

9

19

午前1時頃、子規逝去。旧暦817日の月が子規庵を明るく照らした。

 

 

 

9

21

午前9時、出棺、会葬者150人余。東京都北区田端・大龍寺に埋葬。墓標「正岡子規墓」行年36歳。

 

参考文献:子規選集 和田克司編「子規の一生」増進会出版社