講演:『かけはしの記』と子規文学碑 髙村昌雄会員
卓話: 歌原家と二神家 豊田 渉会員
第百十八回 子規忌法要 令和元年九月十九日(木)
第920回子規会例会 於:天龍山正宗寺
第919回例会 令和元年八月十九日 於:愛媛新聞社ホール
卓話:「漢詩の遊び」 嶌川武彦常任理事
講演:「河東家の出自」高木貞雄常任理事
第918回例会 令和元年七月十九日 於:愛媛新聞社ホール
卓話:「俳句甲子園」戸田政和常任理事
講演:「俳人極堂とその交友」加藤幸男氏(極堂会会長)
第917回例会 令和元年六月十九日 於:正宗寺
講演:「子規と遊里・遊郭俳句」三好恭治 副会長
卓話:「子規の新資料竹村鍛宛書簡」森 正経 理事
第916回例会 令和元年五月十九日 於:正宗寺本堂
講演 「近代俳句史と高濱虚子」 平岡 英 相談役
今年は虚子没後60年にあたり、近代俳句史はその虚子に表されると言えることを明治という時代背景をふまえながら述べ、また極堂から引き継いだ俳誌「ホトトギス」が文学へ与えた影響と虚子の成し遂げた業績ついて述べた。その中で、新派俳句の誕生という子規の俳句革新に始まり、続いて虚子による女性俳句・学生俳句の広がりが現代俳句へと繋がったことをその俳句と共に紹介した。
豊富な資料・写真が提供され子規当時の他の俳人、その後に続く
近代俳人等への言及と考察もあった。 田村記
卓話「樗堂・子規の新資料について」今村 威 相談役
江戸時代の俳人栗田樗堂の
冬の月見に行く不破の関屋かな 及び
子規の明治29年11月3日付けの 内藤鳴雪宛の書簡一通が紹介され、
それぞれの資料の詳細な研究と評価が発表された。 田村記
第915回例会 及び 平成31年度総会記録
平成31年4月19日 於:松山市子規記念博物館1F
卓話「森 円月さんのこと」
本会常任理事 島川允子氏
講演「子規と尾藤二州」
四国中央市文化協会会長 加藤敏史氏
講演:
子規と露月-「ほととぎす」への夢「俳星」への夢ー
石井露月研究会会長 工藤一紘氏
「明治二十九年の俳句界」で子規は「露月鬼才」と高く評価。子規門下四天王の一人とされる石井露月について、「ほととぎす」松山版(第七号~第十九号)を中心に寄稿文、募集句の選、医事俳句等子規との強い絆を述べられた。
卓話: 子規がみた故郷の風景(その2)
二神 將氏
会場: 愛媛新聞本社1Fホール
参加者35名
平成31年1月 第912回例会 記録
1月19日 東京第一ホテル松山(花のれん)
参加者36名
平成30年12月 第911回例会 記録
12月19日 愛媛新聞社ホール 参加者40名
講演 「子規派俳句の俳句性」
愛媛大学教育学部准教授 青木 亮氏
冒頭、保田與重郎(明治43年~昭和56年)の言「子規は創作家であるよりも批評家であるさらに天才的な鑑賞家であり、一代の価値の決定者だった。」を引用し、子規が新派・子規派としての俳論を確立していった過程を、旧派の句や三森幹雄の『俳諧自在法』(明治25年)の論を紹介しながら具体的に述べられた。
その中で子規の碧梧桐や虚子の作品論にも触れ、子規の俳句観が受け入れられる過程には、俳誌『ほととぎす』の役割が大きかったこと、ジャーナリストとしての子規の資質にも言及された。ご著書『近代俳句の諸相』の紹介もあった。
田村七重記
卓話 「子規俳句に見る洋語について」
本会常任理事 田村七重
明治22年の『筆まか勢第一』より「帰化外国語」を取り上げ、子規の当時の外来洋語感覚の考察を試みた。子規は“機械道具など日本にないものは、訳語を当てるのではなく、そのまま用いるのがよい”と述べ、用例を120語ほど挙げている。後にその用例からは、20の洋語を使った俳句53句がある。ラムネの栓天井をついて時鳥 が最初で24年作。
第910回例会 平成30年11月19日 正宗寺堂
参加者32名
講演 『はて知らずの記』をめぐって ─出羽路を中心に─
本会副会長 渡部 平人
最初に平成27年5月に自ら子規の足跡を研究の目的を持って辿ったことを報告された。子規の『はて知らずの記』はもとより、その後の研究資料もつぶさに調べ提示された。この旅に出た当時の子規の状況が詳しく語られ、その上で子規のこの紀行文の考察が多面的になされた。
その中で講演者は、紀行文本体の持つ意味を当時の子規の手紙なども参照しながら、また芭蕉との関係性を双方の俳句を例に挙げながら詳しく述べ、子規の俳句革新の姿勢に触れ、その考察を試みる内容であった。田村七重記
卓話 清水則遠は子規の中に生きていた
本会相談役 今村 威
清水則遠と子規の関係性について、二人の生い立ちや松山時代の逸話などを交えながら、夭逝した則遠から子規が受け取ったものや、その影響を考察された内容であった。則遠を失った当時の子規の悼みと焦躁にも触れ、子規の性格や人生観に則遠が息づいていると結ばれた。子規は家族に送った手紙の一節「御令弟之名を揚ぐる事是小生が務として云々」を、子規は立派にやりとけたのだ。 田村七重記
平成三十年十月例会 第909回於:正宗寺本堂
10月19日 出席者40
卓話 「阿部里雪」という人の一端 高村昌雄
『子規門下の人々』や『極堂書翰集』を出版した阿部里雪の生涯や人となりを含めながら、里雪の俳句とその作品についての考察が述べられた。
碧梧桐の新傾向俳句から井泉水の「層雲」への参加、朱燐洞との関わりなど順を追って説明がなされ参加者の理解が深まる内容で数多くの里雪の俳句も紹介された。(文責田村)
講演 「 子規が見た故郷の風景 」
本会理事 二神 將
冒頭で子規の詳細な年譜とその時々の出来事について述べられた。その中から、子規が弱虫・泣き虫と言われた幼少時代から、何か一芸に秀でた人物を目指して成長していく過程を検証。
子規が明治23年に2回目の久万山・岩屋寺行きを決行し、初回の失敗の憂さを晴らすなど強い気性を持っていたことなどのエピソードを紹介しつつ、それに関連した故郷の風景から、岩屋寺、白猪滝、石手、道後、椿神社、延齢館、愛松亭等の子規が見た風景、見たであろう興味深い風景写真を数多く提示さた。 (文責:渡部)
第117回子規忌並びに物故会員法要及び九月例会
○ 第117回子規忌 平成30年9月19日(水) 正宗寺 出席者65名
例会に先立って子規忌並びに物故会員法要が行われ、十数名の来賓の方々と会員・一般参加者等を含め六十数名が出席された。
13時30分よりの墓前祭では正宗寺田中義雲師による読経と献詠の披講、続いて本堂で行われた本法要では、烏谷照雄会長の開会挨拶、中村時広愛媛県知事と野志克仁松山市長のメッセージ(代読)、来賓代表として愛媛県立松山東高校村上敏之校長の挨拶、絶筆三句朗詠、読経と献詠披講、
物故会員の紹介等があった。
○ 平成30年9月 第九〇八回例会
講演 「 明治維新150年 ―書簡から読み解く明治人の生き方 」
正岡子規研究所主宰・松山子規会顧問 正岡 明
資料「加藤拓川 年譜により、外交官として活躍した64年の生涯を簡潔に説明された後、「拓川交遊録」によって、特に親しかった秋山好古・原敬・陸羯南ほか約十九名、他にも政治家・軍人・実業家・ジャーナリスト等四十五名、計六十四名を紹介。その内の五十余名の拓川宛書簡が残っていることや、犬養毅ら三名の直筆書簡の開示を通して、拓川の幅広く親密な交遊関係を解説。拓川とその友人たちは、明治人として国家の発展に役立つ生き方をしたことを強調された。
子規の等身大の旅姿の写真を掲げることで親近感を深め、拓川と子規に共通しているのは「生きることへの意志の強さ」であること、子規の拓川宛書簡は三十通あり、拓川は子規の利かん気を認め頼もしさを感じていたこと等を付け加えられた。
文責 渡部平人(副会長)
8月例会(第907回例会) 平成30年8月19日(日)
愛媛新聞社1階ホール 出席者42名
卓話 「河東家の出自について―相模国・伊豆国~伊賀国~
備前~伊予国まで」
常任理事 高木貞雄
河東家の初代から二十四代の坤に至る家系について、同家の家系図を解析し多くの資料を参照して代々の当主の動向を詳細に検証された。時間不足のため後半の部については別の機会に発表されることになった。
講演 「子規から茂吉へ」(下) 常任理事 山上茂次郎
昨年10月の(上)に続くテーマで、サブタイトルを「子規の継承と茂吉短歌の世界」として、
子規から左千夫、さらに茂吉への継承の流れを中心に構成。短歌革新の推移を、先ず年代順にた
どった上で、子規の歌論や写生論、代表的短歌を分析。
子規の継承者としての左千夫と左千夫に師事した茂吉を追究し『赤光』等多くの歌集から代表的
な作品抽出し、鑑賞と批評を交えて緊密な継承の事実を立証された。父・次郎氏の所論の紹介、
子規・茂吉の短歌実作地の探訪写真の提示などにより、多彩で充実した発表をされた。
文・渡部平人(副会長)
7月例会(第906回例会) 平成30年7月19日(木)
愛媛新聞社7階会議室 出席者40人
卓話「その日の子規庵ー歌人・会津八一と正岡子規」 烏谷照雄氏
明治33年6月、初めて子規庵を訪ねた八一は色紙短冊を贈られ新潟に帰京後「良寛歌集」を子規に贈る。9年後、八一は手記に 「子規から受けた利益と啓発は実に莫大」と記したが、その間の状況を宮川寅雄や吉野秀雄の所論から立証した。八一の「大和路の歌」3首も紹介した。
講演「子規さんの心意気」 忽那 哲氏
「志に忠実な人」であった子規を、長谷川櫂が「随筆」に書いていることを紹介。また、子規の書簡から「人間性がにじみ出ており、激しく読者の心を打つ」と述べ、伊藤左千夫の「子規先生論」を読むと子規の「絶対的態度」が理解できると述べた。また、子規の多くの作品の中から、子規の文学に対する強い探求心が読み取れると結んだ。
6月例会(第905回例会)平成30年6月19日(火)
正宗寺 出席者36人
卓話「子規の俳句作法」 平岡 英氏
明治28年12月、道灌山で虚子が子規の後継者となることを拒否したこと、それ以降の虚子・漱石の子規訪問や翌年1月の句会の状況、「鶏頭」の句をめぐる子規と虚子の俳論の核心などを追及した。
明治30年、子規は「俳句革新」を達成したが一般の評価は高くなかった事実、「俳諧発句小鑑」に表らわれた当時の俳句作法論を紹介した。
講演「「ホトトギス」松山から東京へ」 松浦巻夫氏
「ホトギス」が極堂によって松山で創刊された際の子規や極堂の決意と当時の新聞批評を紹介。その後1年余りで東京へ移転した経緯を、子規の長文の虚子宛て書簡と、それに対する虚子の「感激の情に堪えぬ」とする返信、第20号の発刊の辞で「「ほととぎす」は余の生命なり」と子規が述べたことの解明。さらに第4巻第1号で子規が「存外好都合で着々と歩を進めているが、仕事はこれから始まる」と述べ、同誌に対する強固な意志があらわれていたことを立証した。
5月例会(第904回例会) 平成30年5月19日(土)
正宗寺 出席者36人
卓話「湯の山文庫と和田蔵書」 小椋浩介氏
愛媛大学名誉教授で子規研究の第一人者で松山子規会長・松山市立子規記念博物館長も歴任した和田茂樹先生が生前、自宅に所蔵していた膨大な資料を「湯の山文庫」として展示した経緯を説明した。 また、愚陀佛庵の再建状況についても語った。
講演「生死の執着と安心 一遍と子規」 三好恭治氏
一遍(鎌倉中期の僧で時宗の開祖)と子規のそれぞれの生死(しようじ)への執着(しゅうじゃく)と安心(あんじん)について、豊富な資料と一遍の和歌や子規の俳句を引用しながら説明した。
△講演「生死の執着と安心――一遍と子規」を語った三好恭治氏 5月例会
○ 平成30年4月例会(第903回)
講演「海南新聞の俳句革新―愚陀佛庵52日の俳句革新―」
松山市立子規記念博物館館長
松山子規会評議員 竹田美喜
海南新聞の記事の詳細な検討により,愚陀佛庵時代の子規を中心とした俳句革新を追究。
海南新聞には明治27年ころより新旧両派の記事が併載されていたが、子規の帰省を契機に新派の主張や日本派の募集俳句が中心となっていく経過を精査。子規が滞在中に執筆の「俳諧大要」が10月下旬より連載されたこと、極堂は俳句革新のための新聞の力を子規に知らしめたこと等を克明に立証し、海南新聞は愚陀佛庵の52日の間に日本派への拠点に転換し日本派第一の地方拠点になったと結論づけた。
△4月例会で講演した竹田美喜松山市立子規記念博物館館長(本会評議員=役職名は当時)
平成30年3月第902回例会 3月19日(月)13:30~ 松山市 正宗寺
講演 「『水月』について」 会長 井手康夫
水月焼の創始者である好川恒方と父・井手淳二郎氏の親交について、作品を提示しつつ紹介。恒方は度々井手家を訪れ淳二郎氏と絵画論を闘わせ絵筆も握ったが、その際は傍で墨摺りを手伝ったこと、絵を得意とした淳二郎氏は恒方の肖像画も描いたこと、更に、恒方の大作「寒山拾得」は宮内省御買上げとなったこと等を紹介。恒方の水月焼の代表作「カニ」は道後名物であること、恒方の父・方渡は「馬骨」と号し優れた日本画家であること等にも触れ、所蔵の「墨竹画」を提示された。
△所蔵の書画を持参して講演した井手康夫・松山子規会会長
平成30年2月第901回例会 2月19日(月)13:30~ 場所:松山市 正宗寺
講演 ボストン大学シンポジウム『世界文学としての俳句』参加報告
講師 田村七重さん(会員)
アメリカ・マサチューセッツ州の首都ボストンにある世界でトップクラスのボストン大学で2017年10月12日、「世界文学としての俳句『子規生誕150年記念シンポジウム」が開催された。発表者として参加した田村七重さん(松山市)は「子規・漱石・極堂150年と松山」と題して英文の資料を駆使して講演。その内容を2月例会で紹介したが、俳句が世界の文学界に関心をもたれ、芭蕉から子規にいたる俳句の歴史や、各国の短詩系と俳句の関連性についてなど、世界中で俳句が研究されていることに驚かされた。
ボストン大学は、そのホームページで松山子規会が発行する「子規会誌」を収集して掲載しているが、田村さんの協力でこのホームページで「リンク」されているのでご覧ください。
△ボストン大学シンポジウムで「子規・漱石・極堂生誕150年と松山」を発表したことを述べる田村七重さん
△国際シンポジウム・世界文学としての俳句in Bostonのスライド
△シンポジウムで発表した世界各国の俳句研究者と記念撮影:右から4人目が田村七重さん(ボストン大学)
卓話 「子規の発見した蕪村の写生」
担当 西原ちづ子さん(会員)
蕪村(1716~1784)は、江戸俳諧の巨匠・芭蕉、一茶と並び称される俳人で俳画の創始者でもある。その蕪村研究に新時代を拓いたといわれる「蕪村自筆句集」(尾形仂編著:筑摩書房 昭和49年刊)を西村さんが紹介した。同書は、従来写実的な句として「有名な句」と、蕪村自身が「高い評価を示す印をつけた句」との違いに注目して、編著者・尾形仂氏は「蕪村自筆句集」から新しい蕪村研究が始まったと述べている。西原さんの発表内容は30分の「卓話」では伝えきれない多くの資料が提供されており他日、追加発表をされることを期待したい。
△卓話 「蕪村自筆句集」を集めた資料とともに紹介する西原ちづ子さん。
△「蕪村自筆句集」の複写より。上段に〇印がある句が「蕪村が高い評価をした自分の句」
(向かって右から)〇ゆく年の 女歌舞伎や夜の梅
〇いざや寝ん 元日は又翌(あす)の事
〇いざ雪見 容(かたちつくり)す蓑と笠 (参考:芭蕉「いざ行かむ 雪見に転ぶ所まで」)
会員からの紹介2件
(1)冊子「子規と漱石ー交友初期の舞台「常盤会寄宿舎」
著者兼発行=現:常盤学舎舎監・増田忠彦氏
冊子を出席者全員に贈呈 紹介者:宇都宮良治氏(会員)(写真下)
(2)講演会
「子規の親友~秋山眞之生誕150年祭 特別講演会」
講師:海上自衛隊第一術科学校長 海将補 中畑康樹氏(松山東高校昭和57年卒)
平成30年3月21日(水:祭日)11時~12時 場所=秋山兄弟生誕地武道場(松山市歩行町)
紹介者:佐伯健氏(会員)=写真下=
平成30年1月第900回例会 平成30年1月19日(金) 場所=松山市 石手公民館
松山子規会が平成30年の活動開始となる「新年会」を19日、松山市石手公民館
で開催した。集まった会員は、毎月の研究発表とは異なった打ち解けた雰囲気で、新年を楽しんだ。
昨年は「松山 子規事典」の発行という10年越しの大事業を成し遂げたので、
今年はさらなる発展を期して出席者の表情は明るかった。
△平成30年1月第900回例会 新年会の次第
△井手康夫 松山子規会会長が「今年も会員増強のために、新しい試みを研究したい」と抱負を述べた。
△子規が12歳のときに作った漢詩を朗詠する武田峰松会員。
漢詩の題は「子規(ほととぎす)を聞く」で、子規は「自分が作った初めての漢詩だ」と認めている。
詩は、鳴いて血をはくホトトギスを詠んでいるが、子規が23歳の明治22年5月9日夜半、東京学生寮「常盤会寄宿舎(現在の常盤学
舎)」で大喀血をし、その時から「子規(しき)」と号して文学活動をすることを暗示するかのような作品だ。
△新春を寿ぎ居合道の夢想神伝流「初発刀」(しょはっとう)を抜く森愼吾経理部長。森氏は全日本剣道連盟居合道教士7段・愛媛県剣
道連盟居合道部会会長の腕前。
△「今年も頑張りましょう!」と乾杯の音頭をとる今村威副会長
△「ほととぎす~ 鳴きつるかたをながむれば~」「ハイ!」「おー、早いね!」と正月らしい「かるたとり」を楽しんで、新年会はお
開きとなりました。
平成29年12月例会(第899回) 12月19日(火)13:30~ 於て正宗寺
講演「子規・漱石 漢詩のやりとり」 講師 嶌川武彦・松山子規会庶務部長
嶌川氏は講演の資料に、二人が交わした漢詩の原文を載せて解説したが、聴衆は二人の漢詩のすばらしさと交友の深さを改めて学んだ。以下は講演の要旨。
子規が明治22年5月1日、「七草集を読み給える君だちにまをす」を書き同年5月25日、漱石が書評に加えて七言絶句・九首を子規に贈ったのが子規と漱石の漢詩のやり取りの始まりである。その後二人は、お互いに漢詩の造詣が深い学友として尊敬しながらも、時に辛口の批評をしたり、からかいの漢詩を交歓したりして、友情を深めてゆく。
漱石の漢詩は現在、206首が残っているが、子規と愚陀仏庵で俳句に没頭してからは作詩が減り、子規も漢詩を作らなくなった。子規は死の直前、絶筆の俳句三句を残したが、漱石も死の前夜に「澄み切った調子の高い最高傑作の漢詩」を残した。
△子規と漱石がやりとりした漢詩を朗読する嶌川武彦講師
卓話 「松山圓光寺の子規の句について」 会員 高橋俊夫氏
高橋氏は、松山市湊町4丁目・園光寺にある子規の石碑「冬さびぬ 蔵澤(ぞうたく)の竹 明月(めいげつ)の書」を紹介し、子規や漱石が好んだ松山藩士で画家・蔵澤と明月和尚の書について紹介した。また、子規の句「風呂吹きの 一きれづつや四十人」の「風呂吹き大根」のいわれについても語った。
聴講した高村昌雄氏は「明月和尚の出身地・周防大島の願行寺にも、松山・圓光寺の子規と同じ内容の句碑がある」と披露した。
△卓話を行った高橋俊夫 松山子規会会員
当日、熱心に聴講する会員。質問や講師の話について追加する会員が多かった。
平成29年11月例会(第898回)
11月19日(日)13:30~
講演と演奏「子規の音の世界を三味線で」
福井みどり・松山子規会監事
子規は、三味線にまつわる俳句や都々逸を多数詠んでいる。文献では残っているが今まで、音で聴いた人はいなかった。それを福井みどりさんが得意の三味線を弾きながら唄った。松山子規会始まって以来の発表である。またその間、福井さんの息女・河野佳奈子さんも協力して、子規の随筆「筆まかせ」や漱石の小説「坊っちゃん」の一節を読み、当時の情景を想い起こしてくれた。
子規が、常盤会寄宿舎の友人と作った都々逸や宴会でよく唄っていた端唄(はうた)を、福井さんが三味線を奏でながら唄うと「子規がそこに居て、友人らと談笑しながら楽しんでいる情景が眼に浮かぶようだった」と聴衆の一人は感想を述べていた。
△子規の三味線の句や都々逸を紹介し(写真上)、三味線を弾きながら唄う福井みどりさん。
△子規の随筆「筆まかせ」や漱石の小説「坊っちゃん」の一節を読む福井みどりさんの息女・河野佳奈子さん。
11月例会卓話「二神島と碧梧桐」
講師 豊田 渉(とよた・わたる) 二神系譜研究会常任理事
「河東碧梧桐のルーツは二神島です」と発表されたのは、二神島で生まれ中島町役場に勤務しながら島の歴史・文化を研究してきた豊田渉さん(64歳)。
資料によると、二神島庄屋の二神種章の二男・平太(へいた)が松山の河東家に婿養子に迎えられた。この平太(1840年=天保11年=1月13日没・64歳)が碧梧桐の曾祖父にあたる。
これを証する系図や河東家が平太の三十三回忌法要をしたことを二神家当主に書いた手紙の写し、さらに碧梧桐の父・静渓が明治21年8月3日、子供3人(兄二人と碧梧桐)を連れて二神島に渡り先祖の墓に参詣したことを書いた日記の写しなどを持参された。
会員は、河東家の意外な事実を知り、歴史の深さに感銘を受けた。なお二神島には古代、山口県豊田郡から人が移住した記録があるとも話された。
当日は、二神系譜研究会の二神俊一氏、二神英臣氏ほか二神姓の方が出席され、例会を賑やかにしていただいた。
△「河東碧梧桐のルーツは二神島です」と発表した豊田渉氏(二神系譜研究会 常任理事)
△瀬戸内海に浮かぶ二神島=二つの山に神がやどるとされたのが、二神島の名前の起源との説がある。(写真提供=豊田渉氏)
平成29年10月例会(第897回) 10月19日(木)13:30~
講演 「村上霽月と子規・漱石との交流」 二神 將(にかみ・すすむ)会員
村上霽月(せいげつ=本名・半太郎=明治2年8月9日生まれ~昭和21年12月15日死去=享年78歳)は、松山市今出で家業の今出絣会社を経営し実業界で活躍するかたわら句作に励み、子規の指導を受けた。霽月は明治28年9月16日、松山市二番町の愚陀佛庵を訪ね、子規に漱石を紹介された。それ以降、漱石が熊本、ロンドン、東京と居を移しても文通をし交流が続いた。
発表者の二神将氏は、霽月と漱石の手紙や俳句のやりとりをした資料を多く示し、漱石の知られざる側面を紹介した。
卓話 「発句経譬喩品」(ほっくきょうひゆぼん)
今村 威(いまむら・たけし)副会長
子規が友人を野菜や果物に喩えた一種の評論を、ユーモアを交えて紹介した。従来、これらが作られた時期が不明だったが、今村威氏は明治33年10月頃だろうと資料を駆使して推測した。
特別参加 「子規研究の会」(東京)から5人
東京で子規を研究するグループ・子規研究の会ご一行5人が10月例会に特別参加された。グループを代表して
事務局の小山照子さん(東京都大田区)は「子規の故郷松山を訪ねたが、子規会の例会に参加できてうれしい」と挨拶した。
△講演 「村上霽月と子規・漱石との交遊」を豊富な資料で紹介し、漱石の人物を手紙や句の交換などで浮かびあがらせた二神將氏。
△漱石が明治32年に詠んだ漢詩「眼にしる東西の字 心に抱く古今の憂い」を「題 漱石句」として村上霽月が昭和13年、手帖に自書した。
△卓話 子規が友人の性格を野菜に喩て面白く書いた「発句経譬喩品」を紹介する今村威氏
△東京から特別に参加した「子規研究の会」のみなさん。メンバーを紹介する事務局の小山照子さん(左端)
△多くの出席者で賑わった10月例会。「松山子規事典」の発売後の成果も発表され、盛り上がった。
平成29年9月例会(第896回例会)と
子規第116回子規忌法要並びに物故会員法要
9月19日(火)13:30~於正宗寺
<子規法要>
子規・漱石・碧梧桐が生まれて150年にあたる今年は、全国的に盛大な行事が行われている。
松山子規会では、子規の祥月命日の9月例会の前に、正宗寺の子規墓前で第116回墓前祭と本堂で本法要を主催。墓前祭では、田中義雲住職の読経に次いで会員の献句・献歌を森慎吾経理部長が詠み、一同合掌してから本堂に移り本法要が行われた。本法要では、井手康夫松山子規会会長が「今日、松山子規事典の完成を子規の墓前に報告することができたことは誠に感慨深く、10年余に及ぶ会員及び関係者のご尽力に感謝する」と挨拶し、印刷が出来上がったばかりの『松山子規事典』第1号を子規の遺影に供えた。(『松山子規事典』の正式披露は10月2日に行われる。発売は10月14日)
次いで、子規絶筆三句を武田峰松会員が朗詠し、中村時広愛媛県知事(本会顧問)のメッセージ代読後、読経のなかを来賓の子規孫・正岡明氏をはじめ井手康夫会長と出席者が一緒に合掌した。
<9月例会>
記念講演の講師は正岡明氏で「子規との不思議な縁(えにし)――生誕150年に寄せて」と題して講演。正岡明氏は、正岡家が養子に迎えた母・八重の弟・加藤拓川の子・忠三郎の次男で子規の孫にあたる。講演では「子規の膨大な遺品は、松山市立子規記念博物館などに保管されているが、これには子規の妹・律や関係者の努力と、父・忠三郎が持っていた資料が戦禍を奇跡的に逃れたことが大きく寄与している」と、あまり知られていないエピソードなどを披露した。
極堂について正岡明氏は、極堂が「子規の枕もとで、母・八重が病気が重い子規を悲しむの聞いて『おばさん、心配しなさんな。升さんは死にませんよ。五十年も百年も生きますよ』というと、傍に寝ていた子規が、オイ馬鹿をいうなといった。私は馬鹿なことではない、一生懸命いうとるのじゃと答えた」と、しみじみ述懐していた逸話を披露し「いかにも幼い頃からの子規の友人としての心の籠った言葉である」と語った。(写真3枚提供=佐伯健編集副部長)
松山子規会 8月例会記録
・ 平成29年8月19日(土) 13:30 正宗寺本堂 出席者34名
卓話 「子規から茂吉へ」(上) 会員 山上茂次郎
山上茂次郎氏は、四国中央市土居町からご出席。義父・山上次郎氏著『斎藤茂吉の生涯』や『斎藤茂吉全集』を丹念に読み解きながら発表された。茂吉は、貸本屋で借りた『竹の里歌』を読んで驚嘆し書き写す。生涯を通して子規を「先覚」と称して讃仰してやまなかったことなどを、誠実な語り口で強調された。次回のご発表にも期待したい。
講演 「三津の俳諧」 経理部長 森 愼吾
子規は明治二十年七月、極堂とともに徒歩で三津の大原其戎邸を訪れ、俳句の手ほどきを受けたが、八十歳の其戎は、懇切に礼儀正しく応対した。三津厳島神社の奉納額(父・森元四郎氏が解読し筆記)所収の百句余りから、三津と周辺各地の俳諧の広がりと隆盛の状況を考察された。其戎は、明治十三年に三津に明栄社を設立し、「眞砂の志良邊」を発刊したが、明栄社に集まった人々は、明治二十年当時では松山の497名を中心に県内外で計724名にの上るという。故郷への愛着と先人への敬慕を込めての講演であった。
卓話 山上茂次郎氏 講演 森 慎吾氏 8月例会場 (正宗寺)
平成29年7月19日(水)(第894回)
講演「漱石と近藤我観」 会員 近藤 元規
会員の近藤元規氏が祖父近藤我観について、所蔵している資料を紹介しつつ、祖父や父元家から聞いた話、記憶している事実を淡々と語られた。
愚陀佛庵に子規が寄寓していた当時、我観も日参組の一人として子規の指導を受けた。その当時の漱石や子規の様子を事実として語られ、興味深い話であった。
漱石が熊本へ赴任するに当たって、我観に贈った句「永き日や」は、広島まで同行した虚子に贈ったとの説もあるが、これは愚陀佛庵に居る時に作ったもので、我観に贈った句であることは間違いない、とされた。
紹介された絵巻物「褌一つで運座」は、極めて興味深く、延齢館での運座の様子、漱石の洋行の際の我観との別れの場面も描かれている。描いた人の名は不明だが我観のことを「先生」と呼ぶ立場の人であることは判る。
近藤元規氏の講演からの想像であるが、松山子規会草創期の昭和18年当時の例会は、このような形で直に子規に接する機会のあった者が、その記憶を辿りながら事実について、語っていたのではなかろうか。
○ 平成29年6月例会(第893回)
6月19日(月) 正宗寺本堂 出席者35名
講演「子規の常盤舎舎友 佐伯傳藏」 編集副部長 佐伯 健
子規の友人・佐伯傳藏(蛙泡)の生涯と俳句等の文芸活動について、常盤舎での活動を中心に解明。傳藏を初め子規や霽月の自筆資料を解読し、多くの資料を活用して内容を構成。傳蔵は常盤舎の文芸グループ(紅葉会)に参加、狂歌・狂句を得意としつつ俳句にも親しみ、子規から高く評価された。兵役後は実業界に転進、写実的な句も多く作ったことを紹介。傳藏の子孫(孫)の立場から、その諧謔味のある人間像や交友関係を鮮明に提示された。
○ 平成29年5月例会(第892回)
5月19日(金) 正宗寺本堂 出席者34名
講演 「『はて知らずの記』と子規文学碑」
坊っちゃん会顧問 高村 昌雄
長年の、全国各地の子規文学碑探索の体験を基に「はて知らずの記」に関わる文学碑を紹介。子規の行程やコースに従い子規の足跡を辿りつつ文学碑を探訪。子規が訪れた状況、句碑建立の経緯や場所等を副碑や説明板も加えて詳細に紹介。資料として碑の分布図やカラーによる画像、加えて自らの画による30数編の「イラスト」資料も提示された。東日本大震災による状況の変化の追跡調査も周到に準備された。
○ 平成29年4月例会(第891回)
4月19日(水) 子規記念博物館 出席者49名
講演 「子規の新体詩」 副会長 今村 威
冒頭で、子規は新時代に相応しい詩の探究を目指していた事実を指摘。藤村を頂点とする当時の新体詩壇を批判し子規自ら作詩した経過を解明。明治29年作の「音頭の瀬戸」や「父の墓」の解読を通して子規の新体詩の特徴を、押韻の試み、叙事詩の多いこと、日本の詩歌の発展を考えたことを究明された。結びとして、「花売る歌」が女声3部合唱に作曲され平成19年に松山で初演されたことを紹介された。
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